一筋縄ではいかない人生に乾杯
『月刊クレスコ』(2003年2月号)より

作家 篠田節子さん

篠田節子(しのだ・せつこ)  1955年、八王子市生まれ/東京学芸大学卒業後、八王子市役所に勤務。90年『絹の変容』で、第3回すばる新人賞を受賞。以降、執筆活動に専念。主な作品に『聖域』『夏の災厄』『レクイエム』『死神』『ゴサインタン』(山本周五郎賞受賞)、『女たちのジハード』(直木賞受賞)、『百年の恋』、『静かな黄昏の国』(角川書店)、『ロズウェルなんか知らない』(講談社)、最新刊に『賛歌』(朝日新聞社)、エッセー集に『寄り道ビヤホール』、ほか多数。
『女たちのジハード』
川人 私が篠田さんの本をはじめて読んだのは『女たちのジハード』で、そのときにある週刊誌で書評を書いていたものですから、感想を書いて篠田さんにお送りしたことがあり ます。
この『女たちのジハード』なんですが、実は私は、このなかで主人公の女性の康子が裁判所の競売の物件を買うというところに、弁護士という職業柄大変興味をもったんです。 というのは、当時そういう相談がけっこうあったんです。この本を読んで、さすがによく取材をされているということで感心したんです。
篠田 これは何年にもわたって短編で散発的に発表していたもので、すごく丹念な取材ができる。特に前半の山場になるのが「シャトレーヌ(城主)」という短編で競売物件を買 う話なんですけれども、これだけのために銀行と裁判所に足を運びまして、それからそういうものを実際に転がす仕事をしている方を紹介していただいてお話を聞いたりしています。
実は取材しちゃったあとで別の弁護士さんから、「危ないからそういう人に一人で近づいたりしては駄目だよ」と大変厳しく注意されたんだけど、取材も怪しげな酒場のカウン ターでお酒を飲みながら、その方が一言ポロッと話すんです。目つきが鋭い方で、クッと飲んで、「これを飲んだら話してやるよ」と。このなかに出てくる中年の男性で「あなたに相場が読めますか」という話とか、実際にどういう手を使って占拠するかということを聞いてきました。
このなかの女の子たちの恋愛模様の部分というのは、普通に話をしていればいろんな話が聞けるので、わりと取材はしないで済むんですけれども、物件を転がすとか、ヘリコプターの免許をとるとか、トマトをつくるとか、そこら辺は全部各業界の話を・・・。
川人 いまの競売のことは、康子の生き方を象徴するような買い物で。
篠田 康子のキャラクターを立ち上げるときに、編集者から注意が入って、この主人公は顔は悪いし、買い物は通販で、普段はセンスがないものを着込んでるようだし、これでは 読者の心をつかめないと。でもこれは主人公のなかの一人であって、読者がもっと感情移入できるようなタイプの女性はほかにもちりばめるから、一人だけ入れさせてくれという ことでつくっていったわけなんです。
競売物件でこういうマンションの買い方というのは、私もバブルの頃に考えたりして、結局トラブルがこわいので手は出さなかったんですけど。
全然違う世界
川人 篠田さんは公務員のご経験が長いんですけれども、この作品に登場する女性たちは 民間の女性ですね。
篠田 まさに全然違う業界を描くということだったんです。公務員の世界というのはたくさん書いてしまいまして、それだったらOLの世界をと。だたOLの小説でたいがい中心 になるのは恋愛ですよね。ですからせっかく別の業界を書くのであれば、できれば仕事まできっちりと書いていきたいということだったんです。
いまから見れば、『女たちのジハード』はまさしくひと昔前の大変に幸せだった時代の女性たちの姿なんです。それでもずっと公務員でやってきた私から見ると違和感のある世界で、びっくりしたのは三七〜三八歳で同じぐらいの年齢なんだけれども、なぜこんなに お給料が男性に比べて安いのかと、それはもう驚きました。
それから、自分がベテランのOLをやっていたときに入社して面倒をみてやった坊やが、やがて支店長になって自分の職場に戻ってくる。私だったら当然頭に血がのぼるところな んです。ふざけるなということなんですが、彼女たちの感覚からすると、素直に喜ぶ。そういうカルチャーショックから最初の部分は書いたんです。
川人 そういう意味での、公務員の世界と一段も二段も違った男女差別というか、最近は裁判でもずいぶん男女差別の是正の判決が出るようになったんですけれども、そういう女 性の置かれている現状をこの作品は大変痛快に書いていらっしゃる。
篠田 できるかぎりリアルにというのと、多視点から書いているというのがあるので、「これは絶対おかしいんじゃないか」と真正面から異議を唱える女の子が一人いる、かた 何とか現状のなかでやっていこうとする人もいるかと思えば、むしろそういうものを利用して「お前は駄目だ」というので徹底糾弾はしたくないですし、それぞれにサバイバルさ せた。
ただし、一人ぐらいきちんと最後まで職場に残っていく人がいたっていいじゃないか、という指摘もあったんですけれども、だんだん書き進んで、一般職の女性たちが残ってい て何になるんだというどうしようもない現実があって、日本経済自体が沈み込んでいって、そのなかでこういう体質の会社というのが沈み行く泥船になっている。そのなかから男性 は会社と運命をともにして沈んでいけばいいんだ、女性はそれを踏み台にして生き残って飛び出していってほしいと思ったんです。
「雄飛」は雄が飛ぶんで、雌は雌伏になるんだけれど、「雌飛」(笑)。沈んでいく戦艦に 体を縛りつけるのは男性たちにやっていただきましょう、女性はさっさと救命ボートに乗り移って新大陸をめざしていってほしいと。
現在の職場は
川人 現在の職場の状況はまた違ってきているというお話でしたね。最近、残念ながら「残るも地獄、去るも地獄」というような言葉も使われるような職場の状況になっていま すね。
篠田 本来はリストラというのは首切りとは違うはずですよね。でも現実には、改善すべきところを放置して、人間の数だけ減らしていって、しかも業務量が減るわけではなくて、 それを少ない人数で回している。少数精鋭という言葉を使っているんだけど、とんでもない話なので、ほかにもっと改善すべきところがあるだろうという気がします。
あるいは価格競争をしていくわけですけれども、労働生産性を上げることによって、ほかの人件費のすごく安い国でできたものと競争しようとしているんだろうけれども、これ はおかしいんじゃないか。そういう形で競争して人を削っていくというのでは勝負はもう目に見えている。何か別の方法があると思うんです。
機械部品一つにしてもこれだけの技術が人のなかに蓄積されている国なんてほかにある のだろうか。あるいは、これだけの教育水準というか、それこそ私の育ったような庶民階級にいたるまで、とりあえずは書類やマニュアルは読めるという能力、学力を備えた国は おそらくないのではないかと思います。なぜそれをもっとていねいに引き出していかないのかという感じがします。
川人 いまおっしゃったことはすごく大事なところで、いまの日本の職場というのは、生きた人間を大切にしない。私たちは過労死一一〇番という相談活動をやっているんですけ れども、働く女性の相談がずいぶん増えているんです。
女性の時代?
篠田 じつはすごく狡猾な手段がとられていると思うんです。雇用機会均等法とはいっても、まだお給料では男性と女性とで相当の差がありますし、女性のパートにしてしまえば もっと安い。いままでやっていた男性をクビにして女性を入れる。しかも女性の正社員じゃなくてパート労働者を入れる。そういう人々を「スーパーバイザー」とか、権限はない のに責任だけある役職につける。すると、なぜかそのために自分から死ぬまで働くんです。女性は特に真面目だからそれをやってしまうということで、それが何“女性の時代”とい うのにすりかえられて、男性なみの過労死事件が起きているのでは?
川人 八王子駅から若い働く女性と一緒にタクシーに乗りあわせたというお話がありましたね。
篠田 ええ。エッセーにも書いたんですけど、深夜だったものですから、タクシーに一人で乗るのもちょっと不安だったので、ふと後ろを見たら、酔っ払いしかいない時間に若い 女の子が立っている。「どっちなの?」と聞いたら家が同じ方向で、「じゃあ一緒に乗りましょう」と誘ったら、車に乗ったとたんにせきをきったように、いまの仕事がいかに大変 で、毎日こんな時間で、全然休みがとれなくて、と言う。とにかくお家の前まで行こうと言ったら、「いえ、いいんです」とコンビニの前で降りちゃうんです。夕飯を食べる時間 がない。女の子の残業って、私も経験があるんだけど、職場で菓子パンなんですよ。それで深夜まで働いて、コンビニでお弁当を買って、家へ帰って食べる。
彼女が降りていったあとに運転手さんがふーっとため息をついて、「女の子は真面目だからさ、一人でがんばったって、どうなるってもんでもないんだよ。自分の体をこわしち まったら終わりなんだよなあ」と。女工哀史みたいに力でこき使われちゃうんじゃなくて、管理職でもない一OLが責任感とか義務感をもって、大変な負担をみずから背負ってしま う。
川人 私が調査した民間の若い働く女性の調査結果なんですけれども、会社の勤務記録上はだいたい六時か七時ぐらいに帰っていることになっているんですが、亡くなったあと、 自宅に深夜タクシーの領収書が残っていて、実際の帰宅時間と会社で記録されている名目上の退社時刻というのがいかに乖離しているかということを痛感したんです。この辺のい かの働く女性が置かれている状況というのは、『女たちのジハード』の時代とはまた違った、いろんな意味での困難性を提起しているような感じがしますね。
福祉の現場で
川人 篠田さんは八王子市の職員をなさっていたんですね。
篠田 一三年間です。
川人 すると大学を出て、そのまま・・・。
篠田 そうです。三五歳までいました。
川人 どういう職種だったんですか。
篠田 私の場合は本庁をはずれて、全部周辺部なんです。最初が福祉部福祉事務所庶務係、その後に教育委員会施設課というところで学校の建築と修繕の担当をしておりまして、そ の後が図書館でした。八王子市ではじめて中央図書館ができたときだったので、移動図書館から入りまして、中央図書館の建設準備、運営計画みたいなことを全部含めた仕事でし た。その後が保健予防課で、予防接種や夜間診療所の仕事をして、それでやめました。
川人 「死神」(文春文庫『死神』、所収)という公務員の方にはとりわけよく読まれている作品がありますが、これは福祉を担当している重松という男性の職員と、ヤクザくずれ の福祉のほうにお世話になったある男性と、二人の交流を軸にした物語だと思うんですけれども、このなかに重松のことを描いたこういう文章があります。
「やればやるほど底のない仕事だった。熱意を持てば持つほど迷いばかりが深くなり、深夜に事務所を出た後は安酒場に足が向いた」。そしてそのあとにさらに「重松には若いケ ースワーカーたちの手際よさが理解できない。仕事の手際よさ、家庭生活の手際よさ、人間関係をさばく手際よさ」。
これは私流の解釈でいうと、この重松という主人公はおそらく、当初は福祉問題に非常 に情熱をもって仕事に入っていった。しかしきれいごとではすまない社会のどろどろしたなかで苦しみ、自らもアルコール依存症になっていく。
篠田 私は庶務担当で、最後までケースワーカーはやらなかったので、自分自身の体験とは違うんですけれども、こういう方は私が就職した当時にはよくいました。はっきりいっ て若い職員から見ると、彼らの仕事のしかたにつきあわされるのは、ものすごい迷惑なんですよ(笑)。
川人 行政に携わる人間がいまの社会のさまざまな矛盾に接していくことの難しさを私は痛感したんですが。
篠田 そうですね。福祉六法を背負って、片方でお金を動かしながら、ケースワーカーの仕事のなかには指導というのが入ってくるわけですから、業務量もはんぱじゃないですし、逆に手を抜こうと思えばいくらでも抜けるということにもなって・・・。
川人 私は、サラリーマンや公務員の人も含めて、病気になったり心の病で苦しんでいる人をたくさん見るんですけれども、よく考えてみると、自分の仕事の対象となる社会自身 が病んでいるわけですよね。病理現象がある。そういうところにかかわりあっていく人間が常に健康でいつづけられるか、そういうことを思ったりするんです。
篠田 そうですね。仕事をしていくうえでの限界というものにいつも直面するわけですしね。その意味で、福祉の仕事も教育も同じだと思うです。
川人 篠田さんご自身の体験として、たとえば市の一職員の立場から見た労務管理のあり方にはいろいろ矛盾を感じられたと思うんですが。
篠田 特に役所は全部そうなんだけれども、歳出部門と歳入部門があって、特に福祉・教育なんていうのは歳出部門の最たるものです。その一方で、歳入のほうは市民や上級官庁 から金を取ってくるつらさ、厳しさというのがまた別にあるわけです。
どんなにある仕事で長期間やりたいとはいっても、特に専門性の強い教育とか福祉みた いな仕事の場合には、税務とか財政とか、行政のシステムそのものにかかわるようなところを体験しながら回っていく。そのことによって、その世界だけに深くかかわりあってい って自分の精神までも病んでくるということは、ある程度防げるんじゃないかという気がしますが、どうでしょうか。
民間のなかでひたすらお金を出してサービスにかかわる部門といったら、わりと少ない んじゃないですか。
手形って?
川人 篠田さんは東京学芸大学の出身でしたね。
篠田 はい。
川人 学校の先生は、自分の教えている子どもの親の会社が倒産したとか、自営業の親が不渡りを出してつぶれたとか、そういうことはよく直面するわけです。ところがほとんど の教員の方は、手形の現物など見たことがないのではないでしょうか。だから、いい意味での社会経験を経て教師になる、あるいは教師になってしまった場合もそういう経験を不 断に得るような周りの配慮なり体制があったほうがいいと思うのですが。
篠田 あ、私も本物の手形、見たことない!
学芸大の仲間がだいたい教員をやっていて、特に男性の若い子が多いんですけど、良心的な教師であればあるほど一番悩むのは、広い社会のことを自分は何も知らないんじゃな いかということみたいですね。別に企業社会だって全然広くなくて、保険会社でも役所でもそれぞれ狭い社会に住んでいるんですけれども、とりあえずほかの業界と仕事上のつな がりはある。理想論ではあるけれど、ほかの業界の人事交流みたいなことができたらすごくいいんじゃないかと思いますね。
児童虐待
川人 篠田さんは「コンクリートの巣」(文春文庫『レクイエム』、所収)という児童虐待 の作品を書かれていますが、このなかで印象的だったのは、その虐待を心配した主人公が学校の校長さんに電話したところ、「その子どもに虐待なんか何もありません」というと ころがあります。
篠田 児童虐待を扱ったほかの小説をいくつか読んだとき、私が「え?」と思ったのは、「お家に帰るとおかあちゃんが殴るからいやだ」というふうに外に向かって子どもが訴え るというパターンの小説を書かれている方がいて、これは絶対うそだと思ったんです。
子どもは外に行ったら親をかばって、傷は隠すし、転んだと言うし、それは親にそうし ないとよけい殴られるからじゃなくて、なぜか親をかばう。かばうんじゃなくて、そうした事実を自分の内で、否定するという方もいます。なぜなら、自分の居場所がなくなって しまうから。これは常識なんですよ。私も保険予防課のときに保健婦さんたちのお話でいくつかそんなことを聞きました。
 じつは小説と同様の虐待を目にして、学校の校長先生に電話をかけたことがあるんです。 すると「本人に確認したらそうした事実はないということで、その子もとても良い子で問題はない。ほんとに一生懸命やっている親子なんだから見守ってほしい」みたいなことを こっちが説教されるわけです。いま考えても、「児童虐待がどういうものかという常識さえふまえていないのか」と首を傾げたくなります。結局何もできないまま引っ越して、そ の子を見ることはなくなってしまいましたが。
作家として
川人 一般に女性の作家の方の作品の場合はどちらかというと、主人公の女性の恋愛とか家庭的な部分などを扱うことが多いような気がするんですけれども、篠田さんはズバリ社 会のさまざまな問題に切り込んでいらっしゃいますね。
 篠田 私自身は社会問題そのものをテーマにしようとは思っていないですし、こうあるべきだと読者を啓発したいとも思っていません。小説はスローガンやメッセージを表現する ためのものではないので。逆にいうと一筋縄ではいかない人生とか、人間の堀の深い、理屈ではなかなかつかみきれないようなニュアンスの深いところをついていきたいわけです。 あくまで私の場合はエンターテインメント小説を書いているのですが、ただ、おもしろい話を書こうと思いながら、普段からどうしても自分が関心をもっているものとかこうある べきだ思っているところが無意識のうちに反映されてきて、結果的に社会派風になっているのではないかと思います。
川人 最近の篠田さんの『静かな黄昏の国』(角川書店)という短編集を読んだんですけれども、表題作の「静かな黄昏の国」は本当に衝撃的な作品で、たぶん年代的には日本の 二〇三〇年か二〇四〇年ぐらいの近未来小説だと思うのですが。
篠田 はい。もう六〜七年ぐらい前だと思うんですけれども、青森県の六ヶ所村に見学に 行ったんです。放射性廃棄物処理施設と手つかずのすばらしい森が残っていて、そこの所長さんのお話では、その電力会社は施設周辺の環境については神経質なほどに気を配る。 すばらしい原始の森が残っているので、その環境が損なわれないように管理する。その真ん中に処理施設があるというすごい皮肉なんですけれども。この先、放射性廃棄物はどん どん溜まっていくというのはわかりきっていることで、危ないんだけど、安全だと説明する。
 ところがやめてしまえばいいのか。日本の電力需要の四〇%はすでに原子力でまかなっている。そうすると、生活のレベルを切り下げて安全を手に入れていこうという選択を、 はたしていまの日本人がするのか。ほかのエネルギーでまかなうとして、石油とか石炭はどこから来ているのか。政情的には一番安定していない中東とか中央アジアから来ている んだけど、それは安全保障上どういう意味をもってくるのか。エネルギー問題ひとつ考えてもとんでもないないことなんですね。そこに今度は穀物需給が四〇%を切っているとい う現実もあるわけで、このどん底不況で国際競争力を失ってきた日本で円が下落してくると、どこから食べ物を買うの、みたいなことになってくる。
 どこかでこれを断ち切らなければいけないんだけれども、一体どうしたらいいんだろうか。そのあたりを徹底してペシミスティックに小説にしていったとき、奇想天外な話にな りました。とはいえ私のなかには、相当に危機感と絶望感というのがあるんです。
川人 篠田さんはアジアの国を舞台にした小説もお書きになっていますが、この「静かな黄昏の国」にもアジアを意識して、日本が衰退して、他方、アジアの国々が繁栄を謳歌しているというくだりもあるんですけれども。 かたちで発信して持っていく必要があるだろうという気がします。
篠田 いまは日本はアジアの国から見ると顔が見えない。イスラム国家もけっこう顔が見えない部分があるので、こわいとか気味悪いというのがあるけれども、それ以上に日本の 国というのは他国からすれば製品とメーカーの名前を知っているけれど、現代文化と人が見えない。薄気味悪い国じゃないかと思うんです。そういう意味では日の丸の下へのアイ デンティティーというのは必要ないと思うんですけれども、お茶とか歌舞伎とか能とかいうものではなくて、今の日本の文化やものの考え方をもっと積極的に、相手が理解できる かたちで発信して持っていく必要があるだろうという気がします。
川人 私としてはぜひ篠田さんの一連の作品を、中学生や高校生が読んだらいいと思いますね。
篠田 ええっ、いいんですか?
川人 いや、本当にそう思いますよ。これからの二十一世紀を担う若者に対する問題提起になるにちがいないと強く感じています。




川人法律事務所ニュース(1998年夏発行)より


ダ・カーポ(榊原広子・政敏さん)

広子さんがヴォーカル&作詞、政敏さんがヴォーカル&作詞、作曲&ギター。1973年「夏の日の忘れもの」でデビュー、1974年「結婚するって本当ですか」が大ヒット。オリジナルソングの他、童謡や叙情歌のアルバムを多数リリースしている。1980年に結婚。1996年広子さんが変形性股関節症で約半年間入院・リハビリ生活。その2人3脚の闘病記を『歩けるって幸せ!』(講談社・1997年10月刊)に書いて出版した。 
2002年サッカーW杯の決勝戦が行われる横浜市のキャンペーンソング「ようこそ・YOKOHAMA」(作詞・作曲ダ・カーポ)を歌う。         
「結婚するって本当ですか」の一行だけで作曲が始まった
川人 1974年に「結婚するって本当ですか」が大ヒットした時には、私はちょうど司法試験の勉強をしていたんです。確か5月か6月だったんではないでしょうか。
広子 はい。74年の6月に発表した曲です。よく覚えていらっしゃいますね。
川人 当時、私は、朝起きて夜寝るまで、机に向かう生活でした。下宿でラジオから流れる曲がジーンときました。この曲は、どのような経過で生まれたんでしょうか。
広子 私の女子校の友達が、結婚しますという招待状を私に送ってきてくれたんです。まあ早く結婚すると思って。その友達が高校時代からおつきあいしていた人がいたので、じゃ彼とかなと思って相手の名前を見ると違うんですね。いろいろな事情があって、お見合いをしてこの人となら幸せになれそうだからと思って結婚するということでした。そんな手紙のやりとりの際に、私は彼女に「結婚するって本当ですか」って書いたんです。その自分で書いた言葉がとっても気になって、それから歌を作ってみようかなとなって出来上がってきたんです。
川人 作曲は政敏さんがなさったんですね。
広子 彼に、曲書いてくださいって渡したときは、あの「結婚するって本当ですか」という一行しかなくって、これから何とか作るから、メロディ先に作ってよと言ったんです。あの一行から全部始まった曲なんです。
川人 あんなに大ヒットした原因は、どこにあったのでしょうか。
広子 ヒットした要因というのは、よくわかりません。でも、あの当時、「結婚するって本当ですか」というタイトルがすごく斬新だったようなんです。しゃべり言葉がそのままタイトルになってるって言う。それが、みんなの聞く耳をそばだたせてくれたのかなっていうところがあります。それと同時に、みんなに起こり得る内容だったんだろうなとも思います。
川人 僕が高校を出て大学に入ったのが1968年です。ちょうど1970年前後の学生運動、安保・沖縄の運動で、若者が大きく動いた時期でした。1974年というのは、そうした嵐の時代が終わってからの時期で、あのときの友人たちはどうしているんだろうかという思いがありました。そういう心情に、この曲がすごく合ったという感じです。
栃木県佐野市から横浜へ
川人 広子さんは栃木県佐野市出身ですね。横浜のほうに出ていらっしゃったのはいつ頃でしたか。
広子 高校を卒業してからなです。と言いますのも、父がスーパーマーケットのチェーン店や市場を経営しておりまして、妹と二人姉妹なもので、私が後継ぎなんですね。それで、たたき上げの父に、もう学歴はいらないから身をもって勉強してこいと、東京の大手のスーパーへ修行に出され、そのスーパーの横浜店に配属になったんです。そうしましたら、たまたま彼が主催しているフォークグループの仲間たちが、横浜で活動をしておりまして、「歌の仲間集まれ」というポスターが、駅の目につくところに貼ってあったんですよ。それを見て、そこに通うようになり、そのうち会社は辞めてしまいました。
川人 音楽の勉強で、横浜へいらっしゃったというのではないんですね。
広子 ええ、全く違うんです。父には怒られちゃうようなことをやっていたんです。
川人 高校時代は?
広子 ええ、音楽は大好きで。ちっちゃい頃から音楽は好きでしたので、フォークソングクラブとか作ったりしておりました。
出産育児と歌手活動の両立
川人 1980年に結婚して出産されましたが、お仕事との関係は?
広子 歌をやめようっていう気持ちはなかったです。ただ、三つ子の魂というのを信じているところがありまして、三歳になるまではちゃんと子どもに愛情を注がなくっちゃと思っていまして、三年間は専業主婦でした。
川人 歌のお仕事ですから、育児は大変だったんじゃないでしょうか。
広子 大変だったですね(笑)。二人揃っていなくなっちゃうので、子どもを預けなきゃいけない。そのときは、本当に引き裂かれるような気持ちで仕事をしていましたけれど。
川人 ご親族の方にお願いしたんですか。
広子 彼のすぐ上の兄さんの奥さんが見てくれたりしました。
川人 お子さんは、いま?
広子 娘は、いま高校生です。
川人 お子さんとのコミュニケーションのとり方はどうなさっていますか。
広子 そうですね、自分で言うのもなんなんですけど、うまくいっているほうかなと思います。時間の埋め合わせというような気持ちがこっちにもありますから、早く会いたい、早く子どもに尽くしたいっていう気持ちで帰って来ますので、子どもと一緒にいるときは一緒にご飯を作ったり普通の生活の中でコミュニケーションを大事にします。子どもと一緒にどこかへ旅行するということではなくて。学校のことでも悩み事でも話してくれますので、うまくいってるかなという気はしますよね。
川人 コンサートのときなどは?
広子 「鯨コール」にひっかけて、「九時だコール」というのをしています。コンサートが終わると九時くらいに落ち着きますんで、「あっ、九時だ」って家に電話かけるんです。
関節症の闘病生活を体験して
川人 1996年1月から半年ほど、変形性股関節症のために闘病生活を送られたことを『歩けるって幸せ!』(講談社刊)を読んで知ったのですが、手術を受けようと決意するときには、躊躇はありませんでしたか。
広子 そうですね、それが、本当に私は馬鹿がつくほど前向きなんですね。お医者様からいろいろと説明を受けました。手術すれば治るということ、この病気は進行していくということ、時期を逃してしまうと人工関節になってしまうということ。この3つのことを考えたときに、もう今やるっきゃないとすぐに思いました。
川人 この本の中では、インフォームド・コンセントという言葉も出てきます。お医者さんの説明がきちんとなされて、納得できたということが大きいのでしょうか?
広子 そうでうすね、大きいですね。
川人 入院中の体験が、その後の仕事や生活に活かされている面はあるのでしょうか。
広子 あの5ヶ月間ずいぶんいろんなことを学んだという気がするんですね。ですから、人の気持ちが前よりも多く分かるようになったかなという気持ちがあります。コンサートの中でちらっと杖をついた方が見えたりすると、そういう方にエールを送りたいという気持ちがとってもあります。
川人 本の中で、「人にやさしさを与える歌を」と書かれています。
広子 ほんとに入院を体験してから、とくに感じましたね。歌が歌えるっていうことがどんなに幸せなことなんだ、なんて幸せな仕事についたんだろうって。改めてそれがすばらしい仕事だって自分の仕事に自信とプライドがもてました。
 人に夢を与えたい、人にやさしさを与えたい、元気を与えたい、そんな姿勢でずっとやっていこうと思っています。
ダ・カーポホームページ http://business1.plala.or.jp/dacapo/